明徳館のご紹介

★明徳館の特徴★

1)創設75年。東松山では老舗剣道場です。卒業生も各界で活躍中です。

2)多数の高段者が指導いたします。

3)合宿など楽しめるイベントも行っております。

4)当道場を運営する伊田テクノスは実業団剣道では名が知れた会社です。

(令和6年、令和5年、平成31年全日本実業団女子 優勝、平成27年全日本実業団剣道大会 準優勝 等)

5)稽古を行う剣道場は当道場所有で、剣道専用の施設です。

6)剣道場では珍しく冷暖房完備です。快適な環境で稽古が行えます。

 

 

明徳館の歴史

 明徳館の歴史は、昭和20年の敗戦後まで遡ります。当時、連合国軍の占領政策により日本古来の武道としての剣道は禁止されていましたが、新日本建設に向け、 株式会社伊田組(現:伊田テクノス株式会社)社長・伊田栄三郎(故)はいち早く青少年の人間形成、心の修練を図ろうと考え、昭和23年8月に「松山尚武館道場」を東松山市箭弓町一丁目に建設しました。これは敗戦後間もない頃のことで、全国的に見ても類を見ないほど早いものでした。東松山市内はもとより近隣の吉見・川島・小川・嵐山・都幾川・玉川等の比企郡内から大勢の剣士が集まり、日夜熱心に稽古が行われました。
 翌昭和24年、比企郡撓(しない)競技連盟(昭和26年、比企郡剣道連盟に改組)が発足し、昭和26年には第1回大会が開かれ、いよいよ盛んになりました。昭和27年、日本の独立と同時に発足した全日本剣道連盟、埼玉県剣道連盟の組織化に合わせ、昭和28年12月に小川地区剣道連盟と松山地区剣道連盟に分かれました。
 松山尚武館道場はその後昭和46年まで続き、門人が増えて手狭になったことから、東松山市箭弓町二丁目に移され、名称も青少年研修道場明徳館と改めました。さらに門人も130人と増え、道場も老朽化したことから、昭和62年9月に東松山市松本町の伊田テクノス本社南側に新築移転し、現在に至っています。その間、平成元年には明徳館初代館長・伊田勘三郎(株式会社伊田組二代目社長)の急逝により、二代目館長に伊田登喜三郎(現:伊田テクノス株式会社代表取締役会長)が就任し、引き続き指導を続けています。同時に名誉館長・範士九段の(故)楢﨑正彦先生(当時埼玉県剣道連盟会長)のたゆまぬ剣への精神と手厚い指導を当館は忘れてはなりません。楢﨑先生は、昭和34年に伊田組入社後、明徳館において主任師範として剣道の指導をしてきました。昭和47年、50歳の若さで八段に昇進し、昭和55年には範士の称号を、そして平成7年5月に九段に昇段され、楢﨑先生に稽古をつけてもらいたい剣士が明徳館に全国より集いました。
 歴史の古い当館は、平成19年、平成29年、令和5年に永年の青少年指導と青少年教育に対して全国でも高い評価を受け、全日本剣道連盟から「少年剣道教育奨励賞」を受賞しました。また、平成24年10月には文部科学大臣より「生涯スポーツ功労者※」として、伊田登喜三郎館長が表彰されました。

※生涯スポーツ功労者:地域におけるスポーツの健全な普及及び発展に貢献し、地域におけるスポーツの振興に顕著な成果を上げたスポーツ関係者を文部科学大臣が表彰するものです。


通常稽古

下の写真は日常の稽古風景です。
明徳館では、剣道の基礎をしっかり覚えていただくため、木刀による基本稽古、日本剣道形も取り入れ、基本稽古を中心に剣道を教えております。
また、日頃の成果をいかんなく発揮することができるよう東松山市内での剣道大会だけではなく、近隣の剣道大会にも積極的に参加し、子供たちの成長を図るようにしております。



合宿

夏の東松山市民総合体育大会に向け、気合の入る明徳館恒例の強化合宿です。燃えるような体育館の中で汗を流しながらの稽古、同じ釜の飯を仲間と食べる楽しさ等、精神的にも、肉体的にも成長する行事です。しかし、厳しい稽古の後は楽しいイベントもあり、この夏の思い出もたくさんできる合宿です。(参加は任意です)



明徳館講習会

毎年、成人の日に開催する明徳館主催の講習会で、地域の方々にも参加をしていただき、盛大に開催する当道場の稽古初めです。この日から気持ち新たに一年間の飛躍を願いながら稽古を行います。